愛すること。強く生きること。恋愛すること。 病めるときもより [おこめの日々]
前の記事でも紹介した三浦綾子さんの小説「病めるときも」に収録されている「羽音」より、引用します。
これを実行出来る人間などいないと言ってよろしいかと。それだけの理想形です。恋をすれば、グダグダと悩み、苦しみ、藻掻くのが我々の実際です。私にもこうした強さが少しでも必要なのだと読んでいて幾度も思うんであります。
「課長様 わたくし、この度会社を退めさせて頂きたいと存じます。理由は、課長さんに二度とお目にかからないためで御座います。
一昨日車の中で課長さんはおっしゃいました。わたくしは叫び出したいほど嬉しゅうございました。と、同時に、そんな自分が恐ろしゅうございました。あの時わたくしは、これ以上、課長さんに近づいてはならないと決心したのでした。
わたくしは弱いのです。今、きっぱりと退社でもしなければ、私は課長さんに惹かれて、身動きの取れなくなる弱い人間なのです。
御夫婦というものは、そう簡単に別れられないものだと思います。また別れてはならないものだと思います。
わたくしは、とにかく一人の女性をおしのけ、不幸に陥れてまで幸福になりたいとは思いません。それとも課長さんは、そんな女性がお好きなのでしょうか。もし、そんな女性がお好きなあなたならわたくしは、そんなお方は嫌いです。そんなあなたならわたくしと結婚なさっても、結局はまた同じことを繰り返すことになるかも知れません。
わたくしは、あなたの自動車に乗ったことも、奥様に悪かったと悔いています。現代では、カーは家庭の一室といわれています。その一室に、奥様に何のご挨拶もなしに入り込んだのは、申し訳のないことをしたと思われてなりません。むろん、これは、私が課長さんをお慕いしている故の申しわけなさなのです。
とにかく、私はこれ以上、課長さんに近づいてはならないと思っています。今のうちなら私は去って行くことができるでしょう。たとえ、どんなに悲しくても、淋しくても。
課長さん、わたくしの母は、父が愛人のもとに走った為に、辛い一生を送ってきたのです。かけがえのない、この一生を、母は父たちのために、悲しく生きなければなりませんでした。さようなら。」
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