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愛犬が亡くなりました…。長いあいだ癒しをありがとう。これからも心のなかで癒してください。 [おこめの日々]

 忘れられない9月30日20時56分。愛犬が死んだ。あまりに突然のことで、しばらくは状況を飲み込めなかった。しかしそれは当座のことだった。考えれば考えるほど、日が経てば経つほど、愛犬の死を理解し、同時に悲しみが襲ってきた。あまりに苦しすぎて、辛すぎた。19年間生きてきて、ここまで悲しい思いをしたことがあるだろうか。慟哭するほかない。崩折れるよりほかはない。
 
 愛犬は私が5歳ぐらいの時、つまり13年半ほど前に我が家の一員となった。約13年間、私と兄妹のごとく暮らしてきた。ペットを飼ったことがない人にはこの悲しみがわからないかもしれない。毎日可愛がり、愛し続けてきた存在が死に、一生会えなくなるというのはどんな気持ちか。子を亡くした親と殆ど同様の気持ちである。
 
 毎日慰めてくれた。孤独を救ってくれた。可愛さで癒してくれた。愛犬の一挙一動すべてが思い出である。共に過ごした13年間は私の人生において貴重で大切な時間であった。陽気に走り回る姿、散歩に行くといえば敏感に言葉を理解して欣喜雀躍する可愛さ、帰宅すれば迎えに来てくれる優しさ、風呂のお湯を怖がる愛おしさ、少し目を離せばゴミを漁る機動力の良さ、愛犬のすべてを私は真に愛し、真に受け入れていた。何をされようと決して手放そうとはしなかった。
 
 9月30日は台風が迫り、雨が降っていた。雨天決行のとかちサイクリングフェスタをサボった日である。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでいた。この作品を私が死に迫る作品であると解釈したのは、これを読んでいるときに愛犬の悲劇に出くわしたからか?ちょうど部屋で読んでいる時、愛犬が未だかつて聞いたことのない声を上げたのである。さすがに不審に思って見に行ったら、どんどん力が抜けていく…。死ぬのだ、一目みただけで私は即座に了解した。何度も揺すった。起こしてあげようと、何度も。生き返るまで揺するつもりで揺すった。近所迷惑になるほどの慟哭。しかし…愛犬の身体はぬいぐるみのごとくひょろひょろになっていた…。
 
 愛犬の死は家族の死である。愛する者の死である。並大抵の悲しみで済まされるものではない。今後幾度も幾度も悩まされ泣かされ悲しまされるであろう。
 
 ”生者必滅会者定離”という言葉がある。なんて残酷な言葉だろうか。生あるものは必ず死に、会った者とは必ず別れるという意の言葉。一人では決して生きていけない人間。どんなに親しくなっても、愛しても、仲良くなっても、必ず別れは訪れる。こんなに悲しくて、それでいて当然の事実が、我々はなかなか受け入れられず、普段は意識せずにいるのだ。だから、突然の死には大いに狼狽え悲しむ。それなのに死はほとんどが突然しか訪れない…
 
 一週間以上経ち、気持ちも大分落ち着いてきたつもりでこうして文章にしているものの、悲しみの情は増すばかりである。だがいつまでも落ち込んでいては愛犬にも悪い。自分の身体にも障る。周囲に迷惑をかけるかもしれない。そこで私の今後の課題。このお別れを機に、私が変わるということ。人間は悲しいこと、辛いこと、思い通りに行かないことが多くあるから成長していくらしい。辛いがしかし、愛犬の可愛らしい姿を思い出してガンバリタイ。
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